自己紹介を兼ねて、あらためて、
私が『アロマ助産師』になったわけを綴るシリーズです。
(月)(水)(金)に、全17記事を、一つずつあげています。
①はこちらから
*2017年11月~12月の間に、
アメブロ(アロマ助産師あっこの『自分でつくる!安心マタニティ&子育てライフ』サポート)
でアップした記事の再掲(一部加筆・修正あり)になります。
================
外からの評価を気にする。
思えば、幼い頃からの正義感も、
親をはじめとする、他者からの評価を、
良い評価を得たいと思っての行動だったのでしょう。
それが、中学生という思春期に、
自己というものを探し、迷い、確立する時に、
表に出てきた、ということでしょうか。
私が気にしたもの。
それは、体型です。
148cmで、60kg位はあったのかな。
あまり記憶にないのですが。
そのころ、
『アトキンスダイエット』
というものが流行り、通信販売で本を手にいれ、熟読(笑)
食事を作ってくれている父や母に、
(私の父はとても料理が上手で、こだわりもありました)
”油を抜いてほしい”
”野菜を多くしてほしい”
もとより、
”量を少なくしてほしい”
と頼みました。
でもねー、その食事、
虚しい‼(笑)
子供心に、
『何でこんなもの食べなきゃならんのか!』
と、怒りにも似た思いをしました。
実際、涙まで出てきて、親の前で、悔し泣き。
それを見た親の顔といえば、それはそれは悲しそうで困った顔。
そんな食事、ちょっとの期間ですぐにやめ、
元通り、美味しくたくさん食べるようになりました。
思えば、この経験は、
食事を楽しく、そして、いかに効果的に、
その人にあったように摂っていくか、
を考える素地になっています。
でもこのことは、後々、自分を否定する材料になっていきます。
美しく、良いと言われる体型になれなかったこと。
決めたこと(減量)を達成できなかったこと。
親に悲しい顔をさせたこと。
なにより、自分はダメだとレッテルを貼ったこと。
これらは、ずーっと、ついてきます。
ともかく、心のどこかで、
『痩せなきゃ!』
の思いは抱えたまま、私はすくすくと成長していきました。
いじめを受けたことはあれど、ブラスバンドクラブのメンバーとはとても良好な関係を築き、
クラスの仲良しの子もでき、充実した毎日でした。
中高のクラブ活動は、私の人生で、とても充実した日々の一つです。
副部長も務め、
『ブラスバンドのコンクールに出よう!』
と、一致団結したことは、本当にきらきらした思い出です。
もう一度戻るなら、この中高時代でしょう。
この頃はすでに、
「助産師になろう!」
と決意した後。
漢字や感想文など表現することが好きな私ですが、
科学的な事、論理的なことを学ばないといけない、
何より、受験項目に、数学や生物、化学など理系の教科が入っていたことで、
高校での進路を理系にしました。
当時担任だった先生からも、
成績の面からも文系の方が良いのではと止められましたが、
ここで持ち前の頑固さを発揮し、理系へと進みます。
情操教育重視の学校で、しかも女子校で、
理系を選択する者は、120名ほどの学年の中、わずか15名(笑)
でも、集団が苦手だった私には、かえって良かったのです。
親しくできる友達も、また、
その進路変更に伴い変わってきたり、
変わらず続いたり。
ここで、私は、
『人の多様性』
というものを学んだ気がします。
学んだものの、
『自己否定』
は拭えませんでした。
なぜなら、ダイエットの経験が、私に影を落としていたから。
どこかで、
『ダメだ、これじゃ!』
と。
長女の特徴もあった私は、面倒見だったり、お節介気質も手伝い、
大きなトラブルはなく、高校時代は過ぎました。
それなりに、おしゃれにも男の子にも興味を持ち、友達とわいわい過ごします。
大学受験も、まずまず。
助産師になりたかった私は、
まずは看護師の資格を取らなければならないことに驚愕しつつ、
看護大学や短期大学を受験しました。
受験校はすべて、助産師資格がとれるカリキュラム、もしくは、助産師専攻科を併設しているところ。
合格し入学した学校は、
埼玉医科大学病院付属短期大学看護学科。
受験の面接でも、
「助産師になりたいです」
と、はっきり発言しました。
神田から通学するには遠い。
寮もある学校だったので、親元を離れ、入寮することになりました。
親元を離れる、このことで、私は自分の世界を広げると同時に、
自分というものに苦悩していくことになります。
正義感と頑固さと、評価を気にすることで。
まさに、ターニングポイントだったかと。
③に続く
コメントする